コロナ禍の世界で今までと違う生活「ニューノーマル」という言葉も流行語にランクインをするほど、新しい生活様式が浸透して、今までとは180度違う生活を余儀なくされている今日この頃である。高校球児が夢にまで観た甲子園が戦後初中止され、オリンピックが延期され、今年に照準を合わせてきたアスリートや国民全体の夢が破れたのも事実だろう。海外留学なども軒並み中止で「夢を叶える」ことが出来なかった人は数知れない。
それでも自分の「夢」を叶えたいと願うならそれは違う形で、もしくは思いもよらないところから叶うのだろうとも思う。
「願い」を叶えてしまった瞬間にその「願い」は日常に変わっていってしまったり、自分の願っていたものだったのにもかかわらず、色わせていく。そのいたちごっこだったりする。
「夢」「希望」を抱くということは人生において、とてもポジティブで社会的においても目標や希望を持つことは良しとされている。
しかし、「夢」「希望」は基本的に満たされていない自分を映し出す。いわば、夢という名の「見えない鎖」でもある。
この夢を叶えなければ、今までやってきたことが水の泡だとか幸せになれないっていったりもするけれど、「夢」「希望」があるとそれを達成するまで「できない自分」「不足な自分」にフォーカスが当たるから「願い」を背負うのもいいことばかりでは無いと思ってしまう。なぜそう思ってしまうのか。辛くなってしまうのか。追い詰めてしまうのか。そう考えると、自分自身に「期待をしている」からだと思う。
自分に期待するということはとても良いことだと思う。しかし人によっては期待することで自分を縛ったり身動きが取れなくなってしまう人もいると思う。
懐かしい思い出に囚われたり、残酷な世界で泣き叫んだ過去が、過去という鎖に繋がれて、夢が一つ叶うたびに、希望が一つ叶うたびに囚われていた夢から解放されていく。
「夢」「希望」を否定するわけではない。ただ自分の設定した夢や希望によって見えない鎖で身動きが取れなくなったり心の不調が出てくることも十分あり得ることだなと思い書いている。ひと昔前の自分なら、夢があるから生きている。価値があるという思いが強かったと思う。今思うのは、安心できる環境で気楽に生きられる人生を歩めたらと思っている。
これでいいんだよと認められる人生を生きていけたらもっと軽やかに幸せに思えるキセキのような人生を歩んでいけると思う。「全集中」ならぬ「全肯定」で・・・。
夢という鎖にさよならを。