私の名前は吉田拓郎。 自分で何でも開拓していくようにとなづけられました。

岐阜県高山市で私は生まれました。100分の1の確立だと医師に告げられ母子とも、命の保証ができない危険な状態だったそうです。「子供は諦めろ」と祖母や祖父に言われたらしいですが、母は私を産もうと決心し緊急手術をしました。わずか、1000グラムという超未熟児で私は生まれました。生命力の強い私は、大きなうぶ声をあげて、予定日より2ヶ月早く出てきました。3日が山だと言われたけど、順調に回復していきました。

そうゆうわけで母は、命がけで私を産んでくれたので、兄弟はなくひとりっこです。

早産・低体重であった私は、酸素がうまく脳へ送られなかったなどで、四肢麻痺の重度身体障害者です。

3歳まで、奇跡を求めて、全国各地へ親子での旅が始まりました。「ボバーズ法」「ボイタ法」「ドーマン法」「中国針」など、あらゆる治療や訓練を試みました。でもまだ、一人で立つことも歩くこともできませんでした。あいかわらず、口だけは達者な子でした。

その頃の福祉はまだ、「社会的弱者」を収容保護して社会から隔離する傾向にありました。先進国より100年遅れている日本の中でも、私の地元である岐阜県は最下位で、保育園に障害児が入った前例もなく、私の親は何度も市役所へ出向きました。

3歳の春、私は入園しました。保育園での移動は、園児たちが走り回る下界を、四つ這いで飛んだり這んだり、階段の上り降りも自分でしていました。みんなと同じ事をして、自然と仲間の中に溶け込んでいました。自分もいつかみんなと同じように、走り回って遊べる日がくることを、信じて疑わなかったです。下界で活動する私の手足は、踏まれたりするのは日常茶飯事でしたが、ちょっとやそっとでは動じない元気な男の子でした。外では三輪車や、ゴーカートのような四輪車で出かけました。

年長の頃、初めて装具をはきました。その大きくて重い靴を履いて保育園へ通いました。するとたちまち私の靴は、注目の的になり、その珍しい大きくて重い靴は「魔法の靴」と呼ばれるようになりました。

小学校は当たり前に、みんなと同じ市内の学校に行くもだとワクワクしていました。ところがとんでもない事実を知らされるのです。何故か岐阜市の養護学校に行くことになっていたのでした。「足がよくなる訓練をたくさんしてから、みんなと同じ学校へいこうね・・・」「いつになったら・・・?」私の問いかけはいつもごまかされていた様に思えました。

母が、小さいときから常に使っていた「自立」という言葉の意味など、まだわからない5歳の私は、保育園を卒園するといきなり、親元を離されました。一人で知らない人ばかりに囲まれて暮らすことが自立だなんて、あの頃の私には余りにも酷でした。

そこは、「牢獄」と呼ぶにふさわしい程の施設だったのです。三食のまずい食事以外、お菓子も食べられない、ジュースも飲めない。4人部屋で同室の子と話をしていると、夜8時過ぎていると言って、寒い外に追い出されます。寂しさと悲しみに押しつぶされ、毎晩私は、泣き続けました。私の人生の中で、辛く絶望的な日々でした。

口答えをしたり、わがままなど言ったときには、今でいう「虐待」のような行為をされます。まずい給食を食べていると、赤い血に染まったエプロンを着た医師達が、私の目の前を横切り、続いて身体にメスをいれられた幼い子が、ストッレッチャーに乗せられ個室に運び込まれるという状況が、毎週続きました。毎日生きた心地もせず、いつか私もあのようになるのか?逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。そんな生活がいつしか「日常」になっていきました。私は、絶対手術なんてしたくない!絶対いやだと、入学当初からずっと、母に言い続けてきました。それもむなしく、2年生の冬、私もとうとう餌食にされるとは・・・。私の主治医は涼しい顔をして、「拓郎君、手術をしないか?」その言葉に、私は体中凍りついてしまい、頭の中が真っ白になりました。一番恐れていたこと・・・自分のからだが切り裂かれる・・・真っ赤な血が吹き出るんだ・・・

この牢獄で、私は殺されるのかもしれないとさえ思いました。私は心の中で大人への「宣戦布告」を告げました。そして、自分のからだと引き換えに、主治医と取引をしました。手術をしたら、高山に帰るという条件で、私自身手術をする決意をしました。それは、一日も早く地元の小学校へ帰りたかったから・・・

7時間に及ぶ手術でした。まな板の上の鯉でした。術後まもなく過酷な訓練に耐え、1年以上地獄のような日々を過ごしました。学校も寮も、自由などなく、いつも大人の目を気にしながら生きていました。大人なんてを信じてなるものか。心に鎧をつけて誰にも心を許さない、許してはならないとそこで育んだ屈折した

なぜ?あんな場所へ私を追いやったのか、母を恨んだことさえありました。まだ、親のそばで、甘えていたい年頃でしたから・・・

施設での実態を、あの頃の私は、家族にも言えませんでした。もし、話したとしても一番辛い目にあうのは、自分だということを、幼心にも感じ取っていました。だから、涙が枯れた頃から、施設では、手のかからない子だったし、家では、近所の子達と楽しそうに遊んでいたから、家族はきずくはずもありませんでした。私の母は病院に勤めていましたが、施設は岐阜市にあるため、高山から片道3時間のみちのりを、毎週欠かさず送迎してくれました。

25年来の付き合い・・・今でも関係は続いている

そのころの、福祉のありかた、考え方などかなり時代遅れもいいとこでした。行政もどこもかしこもひどいもんでした。

今は、いい時代になりつつあると思います。ノーマライゼーションの言葉も自然に使われるようになったし、なんとか義務教育は普通学校へいけます。

私も、やっと施設を抜け出しました。母は、市役所や教育委員会と諦めないで闘ってくれました。なんといっても、私自身地元の小学校で、勉強したいと強く訴えました。

その気持ちが、大人たちを動かしました。県ではじめてしたい不自由児が、普通小学校・中学校へ入学したのです。全校生徒800人のマンモス校に、車椅子は私ただ一人です。

小学校では、下級生がものめずらしそうに私を取り囲み、機関銃のように質問をしてきます。「なんで歩けんの?」「しゃべれるの?」「さわってもいい?」

噂を聞き、駆けつけた父兄たちも私に近ずき、「なんだ、ふつうじゃない?」「もっと、すごい子かと思った」と、言うと平気な顔をして立ち去りました。

学校では、歩行器で移動しました。運動会は全競技参加し、自分の足で走りました。片手だけで、毛筆習字を始め、2段まで習得しました。

 中学校も、700人のマンモス校でした。中学になるとみんな、からだも大きくて私みたいなチビを、軽々とおんぶして、次の授業まで連れてってくれたり、階段の昇り降りも、ヒョイとかついでくれました。

ここでは、歩行器でかなり歩きました。柔道部に入部して、受身や寝技を練習する傍ら、マラソン大会に参加するため毎日走るトレーニングをし、記録を伸ばしていきました。夏の部活の壮行会に出て選手宣誓をしました。あらゆる大会に出場し、賞をもらいました。中学で、スポーツをする喜びを知りました。

 小学校・中学校での経験は自分の経験にとってプラスのことももちろんありましたが、私の思っているものとは違いました。高山市初の「身体障害児童」ということで、自分だけのクラス「特殊学級」という自分「だけ」のクラスに私と先生のマンツーマンの授業が中学卒業まで続きました。どうすることもできない環境と感情が入り混じり交差をしてそこで私はまた自分の闇に還って行きました。

 高校はエレベーターがないと言う理由で、地元は諦め関市の養護学校へ行く事になりました。そこでは英検・簿記を習得したり他にもたくさんの資格を取れるだけ取りました。そこで私は交友関係が広がり、トランペットに出会ったのもこのとき。今でも細々と続けている。移動範囲が格段に上がりました。そこで自分自身で人生を決めるという大切さを知りました。その頃にスウェーデンでの福祉研修プログラムに応募して、参加できるようになりました。スウェーデンでは同じ障害のあるホストファミリーの家族のところへホームステイをして学校への授業も参加さしてもらいました。どんな重度のハンディキャップがあろうと、施設にはいれないで、その子供にあった治療プログラムを持っているそうです。子供に必要なリハビリは、県が行っていて、子供たちはそれぞれ専用のプログラムによっていろんな人が動くのです。ST(言語療法士)PT(理学療法士)OT(作業療法士)が保育園や学校に出向いてくれます。

まだ高校生だったんだぜ!尖ってたんだぜ!

 

スウェーデンに一緒に行ったメンバーとは未だに関係が続いていてとてもとても嬉しく思っています。

高校以来の再会でみんな立派な大人に・・・

高校卒業後私は地元である岐阜県高山市の福祉用具制作会社へ就職をしました。とてもやりがいのある仕事であったが、1年経たずに会社が閉鎖してしまい、また人生を見つめ直した時期がありました。数年地元で生活をして、その後自立生活をすることは難しいと2010年に判断し首都圏への生活を選択しました。にそこでの生活は、厳しいものでしたが、刺激のある日々だったと思います。2011年「東日本大震災」で被災して地元に一旦戻り、いま現在名古屋で一人暮らしをしています。

今の生活が自分にとって本当の自立生活だと思っています。四肢麻痺の私が一人暮らしをすると言う事はある意味、誰かの力を借りなければ生活ができないと言う事。そして自分がどういう生き方をしたいかと言う選択を自分自身で選択すると言う事。

 

人との出会い、別れ、悲しみ、優しさを経験し、いまだに出会いと別れを繰り返してはいる。一度は枯れた花でさえ、また芽吹き花を咲かせるなら、もう一度、私のこの日常を輝かせるように、いくつもの出会いと別れを握りしめて歩く。この幸福と寄り添いながら。「私という運命」はこれからも続いていく。それが「私という幸福な運命」であるように、そうだったと言い切れる人生であるように。生きていこうと思います。たまにトランペットでも吹きながら・・・

 

「私という運命について」への2件のフィードバック

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